空想と現実と。エクセルシオの気ままなブログ。
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
『ロッキー・ザ・ファイナル』
【映画感想】
ロッキー・ザ・ファイナル
"Rocky Balboa"

ボクシングを題材にした映画には優れた人間ドラマが多いと思う。個人的には50年に一本の傑作だと思う、重層的で神がかり的な作品『ミリオンダラー・ベイビー』。スコセッシ監督のベスト、破滅的な人物を妥協なく描ききった『レイジング・ブル』。ボクシング映画に付きものの闘争心をあえて省いた点がユニークな、サラリーマンボクサーの物語『シンデレラ・マン』。そして『ロッキー』。
ロッキー1作目は素朴な、とてもいい映画だった。アメリカンドリームを体現した映画とはよく言われるけれど、勝敗にこだわらず、その過程の価値を何より重んじている点でとても日本人好み。坂口安吾の言葉「行為の値打は、その人の信念によって支えられ、そこにだけしかないものだ」がぴったりくると思う(ロッキーで坂口安吾はないだろーと場外から言われるかもしれないけど)。

さて。ロッキーシリーズの完結編、この『ロッキー・ザ・ファイナル』。はっきり言って欠点も多い。メッセージを台詞で語りすぎて物語が説明的。魅力的な設定、とくに対戦相手の現役チャンプのそれ(彼は悪役ではなくて不人気に悩む一人のボクサー、これが最後にものすごく重要な要素になる)が活かせてない、などなど。それでもこれ、素直にいい映画だと思った。それは無骨で荒削りでパワフルな魅力があるから。もしそれを何か食べ物に例えて言うなら、頑固オヤジの作るとんこつラーメン(ちょっと個人的な嗜好が入ってます、笑)。それも間違っても今どきの小奇麗な店で出されるものではなくて。暖簾に年季の入った古めかしい店でのそれ。見てくれはちょっと悪いし目新しいものはないが、でも味はいい。
『ミリオンダラー~』の深遠さはこの映画にはないかもしれない。だけどあの映画では生み出せない、ストレートな気迫とガッツがある。それが映画全体からほとばしっている。さながらロッキーの生き様とこの『ロッキー・ザ・ファイナル』 自体が同化したよう。一本の映画として見ればアウトな造りも、これがロッキーの物語なんだと思えば妙に納得してくる。再びリングに立ち上がらんと突き進む彼の姿(ロッキーは年齢なんてぜんぜん気にしちゃいない、迷わない)が描かれば描かれる程に説明的と思えたものが熱く胸を湧かせるものになってくる。その熱い想いは、あの有名なテーマ曲をバックにしたトレーニングのシーン、そしてフィラデルフィア美術館でのガッツポーズで頂点へ!

「絶対に勝てない。でも15ラウンドまで戦えば、負け犬でないことを証明出来る。」
とは1作目でとても印象的だった台詞。この言葉、『ロッキー』と『ロッキー・ザ・ファイナル』の関係にも当てはまると思う。『ロッキー』の夢よ再び。そんなのどうやっても無理だ。1作目は自身無名の俳優だったシルベスター・スタローンだからこそ創れた映画なのだから。出来上がった映画を観ても『~ファイナル』には1作目にあった繊細さ(ロッキーが自分の不遇さを愚痴った後、教えを請いに行く後ろ姿を遠くから撮ったショットなど)なんかは皆無で、ドラマ面での演出は劣る。
(ただ今作のクライマックスの試合の臨場感はなかなかのもので、まるでいきなりTV中継の中に放り込まれたよう。途中経過も、鋭いカッティングと血が映えるモノクロの画面でより魅せる)

けれど。1作目にあった感動を、あれから30年経ち違う形で伝えたい。そういう想いはとにかくガツンと伝わってくる。そして自分を映画界へ引き上げてくれた『ロッキー』へのスタローンの深い深い感謝の念も、愛妻「エイドリアン」を通してひしひしと伝わってくる。その意気込みと想いに感服。『ロッキー・ザ・ファイナル』 は結局、試合に負けたのかもしれない。でも見事15ラウンドを戦い抜いた・・・とでも言いたくなる。『ロッキー・ザ・ファイナル』 は『ロッキー』にあった誇りを取り戻すまでの物語。『~ファイナル』は1作目の精神、勝敗を超えたもの、それを最後になって取り戻した。

ロッキー・ザ・ファイナル
スポンサーサイト

テーマ:ロッキー・ザ・ファイナル - ジャンル:映画

カポーティ
【映画感想】
カポーティ
"Capote"

「悪魔に魂を売り渡してでも」という表現を、たまに目にする。
映画でも主人公が悪魔が通して何かを手に入れ、その代わり大きな代償を支払うというストーリーは割とある(近頃、脇役として復活気味の80年代スターの映画にもそういうものがあった)。この映画は実在の作家トルーマン・カポーティが作品『冷血』(これは犯罪ノンフィクション小説の先駆けとなったものだそうで)を書き上げる過程をスケッチしたものであり、もちろん、悪魔などというものは登場しない。けれど「悪魔に魂を・・・」という行為に人を走らせてしまうもの、そして引き換えに失うものの重み、そういうものを描き切ったという意味ではオカルティックな映画よりも余程凄みがある。

フィリップ・シーモア・ホフマンの演技がとかく評価された映画だけれど。奇を衒ってはないが演出の方にも見るべきものがある。葉が落ちた木がぽつんぽつんと立ち、だだっ広く、寒々しい冬のカンザスを捉えた象徴的で写実的なショット。それはそこで起きた出来事の薄ら寒さを強調する。他にも、人物のアップを多用するのではなくシネスコの横長の画面を活かした構図などは、70年代の映画のようでもあり(ぼくの17インチのTVでは少々見づらい場面も)そういう人物と一歩距離を置いた感じの冷静な演出な隅々まで行き届いている。それでいて冗長さを感じさせないのは、監督曰く「観客がもう少し見たいと思う一歩手前で切った」という編集の上手さ、ミステリ/サイコスリラー的な趣のある脚本の上手さもあるのだろう。殺人犯と聞き手の物語ということもあり、「羊たちの沈黙」を連想したりもした。尤も、この映画ではどちらがレクター博士でクラリスかはあやふやだけれど。

映画は静かに静かに主人公カポーティの心のゆらぎを描いていく。
描き出される彼の姿は複雑だ。公の人間として華やかな名声を求め、一人の人間として取材対象に感情移入し、その取材対象の感情を踏みにじってでも作品を書き上げたいという感情に突き動かされ、そしてその相反する感情を友人に吐露する。物語が進むごとに彼の内にある感情は高まり、相克し、捩れ歪み、そして終には虚脱の念に苛まれる。そういう心理ドラマを台詞で表現してしまうような野暮な真似を、この映画はしない。彼の一挙一動を切り取って見せるだけだ。それでも内面に渦巻く複雑な感情が手に取るように分かる。
彼の言葉には大抵嘘がある。矛盾がある。いや彼自身、自分の感情をどう処理すればいいか分からなかったのかもしれない。殺人犯ぺリーに深入りするトルーマンを心配する友人の女性作家に、彼はこう言う。「愛情を抱きながら利用することなんて出来るかい?ペリーと僕は同じ家で育った兄弟のようなものさ。ある日、彼は裏口から出て行ったけれど、ぼくは正面玄関から出ていったのさ」。この言葉ペリーとの関係を見事に表している印象的な台詞なのだけれど、はたしてカポーティの心理はそんな風に割り切れるものだったろうか。疑問に思う。クライマックス、ペリーへの悲痛な思いが頂点に達したカポーティが見せる張り裂けさそうな表情!役の心理を言葉でなく表情で見せきったホフマン氏の演技は俳優の鑑。素晴らしい、の一言。

さて。この映画はあくまで作家トルーマン・カポーティの心理に焦点を当て、殺人犯ペリー・スミスのそれは深くは追求しない(『冷血』を読んでくれ、ということか)。とはいえ必要最小限に彼の姿も描かれている。殺人犯ながらペリーを人間として苦悩する存在として描きつつも、ペリーの姉に「弟は握手するように人を殺す人間だ」と言わせたりする。その相反する姿は、カポーティ自身の姿と重なって見える。
罪を犯す人間も苦悩する人間だからといって、その罪が許されるとは思わない。犯した罪は罰せられるべきだし、償われるべきもの。ただ思うのは、そういう人間に宿ってしまう悪魔は誰にも潜んでいるものだということ。姿形を変えて。この映画で作家トルーマン・カポーティも悪魔を引き出してしまった。いい作品を書き上げるという目的のために。新しい本のスタイルを構築したという作家としての名誉と引き換えに支払った代償はあまりに大きかった。『冷血』というタイトルが皮肉なものになってしまった。彼は法で罰せられるような罪を犯したわけではない。が、その罪を彼自身が誰よりも深く自覚し被ってしまった。映画はラスト、静かに溶暗する。感じるのは、やり場のない罪悪感。絶望感。カポーティが自ら引き出した闇の深さに、ただ打ちのめされる。

カポーティ

テーマ:映画感想 - ジャンル:映画

鉄コン筋クリート
【映画感想】
鉄コン筋クリート

松本大洋の原作は未読(なのでチケット売り場で『鉄筋コンクリート』と言ってしまった、恥っ)。パっと見、連想したのは『AKIRA』。見続けていくと、少年版『ファイト・クラブ』?いやバイレントな『未来少年コナン』というべきか。辺り構わず、ところ狭しと街を疾走!高さなんて関係ないぜ!とばかりに駆けめぐる(でもそれなりに物理法則、ズシンとした重みあり)縦横無尽さ。主人公クロとシロは親に捨てられ社会から見放された子供、いやガキどもで、誰にも何にも縛られず生きているのだが、そんな設定と自由奔放なアクションが連動し、その躍動感が見ていて気持ちがイイ。さながら重力からも社会からも解き放たれているようで。とはいえ。それだけなら、それこそ『未来少年コナン』。でもこの映画の味つけはジブリ作品の上品さとは無縁。このガキども自分たちだけの力で生き抜いてるから、自分だけのルールに従っている。社会のルールなんてお構いなし。手に負えない凶暴な奴らでもあり。近頃観た『ラストキング・オブ・スコットランド』でのセリフに「子供だからこそ余計に怖い」なんてのがあったけれど、それ、ズバリこの映画にも当てはまりそう。剥き出しの本能。滴り落ち、口の中に広がる血の味。混じりっ気なしのそれには、アドレナリンが湧くのも事実なんだけど。
映画はそんな主人公たちのエピソードを縦軸に、横軸に「大人の事情」を絡めていく。出てくる奴ら、刑事以外はワルばかり。が、族でもヤクザでも守るべきものがあったりもする。しかしそれをネタに強請り、裏切り、汚い手段を使う。「てめぇ、汚ねぇぞ!」「悪いな、こっちはプロなんでねぇ」。上には上がいる。キリがない、どす黒い世界。そんな中では手に負えないガキどもといえども、その行動には純粋さを感じたりもする。惹きつけられたりもする。が、やがて彼らも事情に絡めとられ、壁にぶち当たる。自分の力では刃向かえないものに。

物語の舞台となる街は、『ブレードランナー』のLAのように無国籍。それでいて昭和の香り、懐かしさがある不思議な街。画面全体から現実離れした淡いブルーをどことなく感じるので(空のせい?)、摩訶不思議さが一層際立つ。子供が想像力をぶち撒けたような(だからクロが「オレの街だ」なんて言うとやたら似合う)奔放さ。でもそんな街が舞台でも、骨格にあるのは普遍的なストーリー。自分より大きなもの、突き詰めれば抽象的で曖昧な社会というもの(の一部分か)と向き合ったときの物語。

ところで、『未来少年コナン』のようと書いたけれど。あくまで強固なコナンとラナの関係に対し、クロとシロのそれはしだいに揺さぶられてくる。限りが見てくる。アンチテーゼ?・・・ま、といっても、クロとシロはどっちも少年(「やおい」か?とも思うな、苦笑)。二人の関係は置き換えられて面白い。兄弟のようでもあり。男と女の関係のようでもあり。一人の人間を名前、クロとシロに象徴させて分割させたようでもあり。ともあれ。クロの持つものは力。シロは空想。お互いがお互いを補い合い、どちらが欠けても不安定。特にヤクザも怯む力を持つクロが、独りの存在としてはどうしようもなく脆いというのがこの物語のミソで面白いところ。クロに依存しているシロの方が、自立することを覚えれば存在としては強いものにも見える。シロには未来があるがクロにはそれがない。
この映画、ガキが鉄パイプを振り下ろすシーンなんてのがあるとはいえ、根っこにあるものは意外なくらい真摯(これに比べれば「ディパーテッド」のほうが余程アンモラル)。いっそ、アナーキーに突っ走って欲しかった気もするくらい(実際物語的にもそういう道を選ぶことも出来た)。でもそうはしなかなった。壁にぶち当たったときどうするか?それに対するこの映画の答えは、何かを信じること。未来を信じることによって、はじめてクロの生きる道も開けてくる。

そういえば、空想に耽るシロの姿には我が身が重なり懐かしさを感じた。それは僕も子供の頃、絵を描きまくった時期があったからで。落書き帳に絵を(これがまた下手クソ!)ひたすら描いていたあの時は、周りを意識せず思うままを表現出来た。今、同じようことをしろと言われても出来ない(シロとクロが混じり合い、中途半端なグレーの人間になってしまったと思う)。だけど周囲を意識しないそういう力は、今でも強いエネルギーになる。だから自由奔放なクロとシロの物語は、いいなと思う。それに加えてこの映画は、二人の物語をそこに留まらせずさらに一歩押し進めることによって見えてくるもの、それがあるからとってもいい。

鉄コン筋クリート

テーマ:映画感想 - ジャンル:映画

世界最速のインディアン
【映画感想】
世界最速のインディアン
"The World's Fastest Indian"

世界記録に挑戦した生粋のバイク野郎の実話。
バイク、スピード、限界への挑戦。ずばり!好みな題材。ただ、演出は手放しでは誉められない。この映画はエピソードのひとつひとつが「いい話」に収束してしまう(ほんの少しの例外を除く)。これには初め乗りづらかった。出てくる人出てくる人、みんな結局いい奴ばかり!監督曰く、全て実話に基づいているそうなんだが、いくらなんでも出来過ぎだろ!!とツッコミたくもなる(数年間に起こった出来事の中から、良さげな話だけをチョイスし繋ぎ合わせたと推測)。受けつけない人はとことん受けつけないだろう。ご都合主義と言われても無理はない。とはいえ、ぼくはこの形式を苦笑いしつつも受け入れてしまった。あまりに開き直りがいいと云うべきか。ここまでされるとアッパレ。それが理由の一つ。

それに加えて、この都合のいい話(よく云えばファンタジー)を受け入れられた理由。それは主人公バート・マンローという人物、そしてそれを体現するアンソニー・ホプキンスの魅力。これに尽きる。バート・マンロー、彼の夢に向かって突き進む執念はとにかくスゴイ。ものスゴイ。何しろ40年前のバイクをひたすらチューンアップし続け、世界記録を出せるバイクにまで育て上げたのだから。バイクとスピードに駆ける意気込みは半端なもんじゃない。これまたアッパレ。
とはいえ奇人変人(実際隣人にいたらさぞかし迷惑な人物だと思われ)、一歩間違えばその執念は狂気のキャラクター(なのでレクター博士ことホプキンス氏のキャスティングにも納得)。けれどそんな彼を魅力的にしている要素は他にもある。それはとってもお茶目でチャーミングなこと。そんな彼の資質は子供のような飽くなき挑戦心から生まれるのだろうけど、そこに老いが被さることによって深みのあるものを感じさせる。マンロー氏が世界記録に挑戦したのは齢63のこと。彼の分け隔てない人への接し方は、人生を知り尽くした者が持つ包容力も感じるさせる。ふと発する言葉には、時の流れと重みが含まれている。そういう時に見せるアンソニー・ホプキンスの表情が、渋みを感じさせ逸品。

老いると頑固になり狭い世界に閉じこもる人もいるが。でも例えば近頃のクリント・イーストウッド監督の活躍を見て思うのだけど、老いを味方につけ逆に外へ飛び出そうとする人のエネルギーには底知れぬものを感じる。それがバート・マンロー(&アンソニー・ホプキンス)にもある。この映画を観て、老いた者が持つ深みを感じても彼を老人と意識する人はいないと思う(ちなみにバートはモテるし恋もする。それも分け隔てなく。いや、見境なくか?!)。体は少々ガタついても一人の人間として凄い。それはバートがひたすら磨き上げ続けた40年前のバイク、インディアンに秘められた力と同じ。まさにバートとインディアンは一心同体!

ともあれ。こういう主人公だからこそ「いい話」に収束してしまう展開、みんないい奴!も許せたのだと思う。映画の中で、彼の周りにいつの間にか仲間が出来ている場面があるのだが、そのシーンがすんなりと映画に収まっている(練り込まれたエピソードよりも余程)。それともうひとつ。そういう場面で印象に残ったのが、バートが初めて悲願の地ボンヌヴィルで他の記録挑戦者と出会うところ。彼らは初対面。が、まるで面識があるかのように「記録に挑戦するにはいい状態だな」などと話し、そのあと始めて自己紹介を交わす。バートの人柄の魅力しかり。彼のスピードやバイクに賭ける執念しかり。それらがあればこそ、の場面の流れ。

さて、クライマックスはもちろん世界記録への挑戦。
真っ青な空の下、白い大地の上を、赤いバイクがただ一点を目指し疾走する。それまでタメにタメていたエネルギーが遂に解放される場面。それだけにそこには、えも言われぬ興奮、高揚感があり。・・・そして後に残るのは、ただただ清清しさ。バートの夢への情熱。そして彼を取り囲む人々の温かさ。
大分脚色された映画とは思うけれど。若くもない、孤高でもない、夢への挑戦者(書きそびれたが彼がニュージーランド人という点もミソ。彼ら独特の開拓者精神を"Kiwi Spirit"と呼ぶそう)の物語には、型枠はステレオタイプでも安易なサクセスストーリーとは違う魅力があり。何より、こういう人物のドラマを知れただけでも価値はあった(バート・マンローの根底にある精神はきっと現実も映画も同じ)。機会があれば自伝も読んでみたいものだ。


(追記)
実際のバート・マンローは結婚&離婚(そうだろうな、笑)の経験があり、4人の子供がいるそうな。ま、やっぱり映画は映画。でも生き様はしかと受け止めました。

世界最速のインディアン

テーマ:見た映画の感想 - ジャンル:映画

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。