空想と現実と。エクセルシオの気ままなブログ。
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リトル・ミス・サンシャイン
【映画感想】
リトル・ミス・サンシャイン
"Little Miss Sunshine"

飛び抜けたものはない。目新しさもない。インディペンデント系のドラマにも少々食傷気味・・・余程個性がないと記憶に残らなくなっているけれど。この映画に限っては、むしろそのクセのなさが良かったのかも。

映画が始まってから直ぐ画面に次々と登場するのは、どこかにいそうな気もする家族。フーヴァー家の姿。・・・とはいえ、ニーチェに触発されて「沈黙の誓い」を守り続けている兄ちゃんとか、ドラッグと女に目がない祖父ちゃんなぞは、そうはいないかもしれないが・・・・でもエキセントリックな印象だけがするわけじゃない。俳優の演技のおかげもあると思う(「おじさん」を演じるスティーブ・カレルがいい例、抑えたいい味)。それともう一つ。彼らのそんな姿には理由があるから、一風変わったの一言で片付けられない。映画のキーワードは「勝ち組」「負け組」だが。それと結びついている。

この映画は登場するエピソードのひとつひとつが、主人公たちが負け組であることを悟らされるという、苦~いエピソードで貫かれている。でも、ユーモアとキャラクターに込められた愛情故か、ドライでもないし、ベタベタと感傷的でもないし、ましてや高みから笑い飛ばした感じもしない。フーヴァー家をよく知る友人がホームビデオで撮ったような・・・なんて言ったらいいのかな。観客である僕の目線も自然とそんな感じになり、この一家の姿に引き込まれる。

さて、「勝ち組」「負け組」。そんな否定したくても、社会的にはカチリとはまり込んでしまう構図のカタチ(意地悪な見方をすれば、この映画が支持されている事実がそれを如実に表しているわけで)。この映画にはそれを吹き飛ばしてしまうモノがあるから、いい。といってもそれは敗者への悲歌的なものではなく。勝ち負けという区分を無くす、エネルギー。全てを悟ったように自由奔放な祖父ちゃん曰く、「本当の負け犬は、負けることを恐れて何も挑戦しないヤツらのことだ」。
(・・・この言葉、ズシンと胸に響きます)

強い個性のある映画ではないけれど。ひとつ大きなシンボルがある。それは一家が乗ることになる、古びた(でも味のある!)黄色のフォルクス・ワーゲンのバン。が、この車。途中から「押しがけ」しないといけない羽目になる・・・この状態に延々つきまとわされる、不運なフーヴァー家。
始め、あ~~~なんでこんなことやってんだ~!!!的な彼らの姿に笑うものの、終盤にはこれがガラリと印象が変わる。前へ前へ進もうとする、それぞれの気持ち。それが一つとなって生まれる力。一体感。それがこの行為からクッキリ見えてくる。感じる清清しさ。さらに見えてくるのは、苦労してここまで来たからこそ得られる喜び。

気負わず、ふらりと観たら。
いいもの観たな。・・・そんな気分になる、愛すべき憎めない映画。

リトル・ミス・サンシャイン
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テーマ:リトル・ミス・サンシャイン - ジャンル:映画

もうひとつの足跡
青島太平洋マラソン大会


去年は期間従業員をしたのに加えて。もうひとつ、足跡を残した。
二年前、初めて5㌔のマラソン大会に出場したときからの目標。
悲願だったフルマラソン。
国際青島太平洋マラソン大会」に出場した。

はじめての42.195㌔。
でもレースへ向き合った姿勢はいつもと変わらない。
前半は力を蓄えて。後半からが本番だと自分に言い聞かせる。
とはいえ、さすがにフルともなると今までと違う。
1キロ、1キロの距離表示が、半端じゃなくしんどい。
まだ5キロ、まだまだ10キロ、やっと20キロ・・・・・・・・・・。
いつまで走り続けられるか。そんな気分になる。

くわえて。別の意味で距離の差を感じるのが、お腹が空くこと(笑)。
水分補給だけではエネルギーが枯渇する。
有り難いことに、オフィシャルの給水所だけではなく、
沿道の応援者の方が飴やチョコレートを差し入れてくれる。
これは本当に助かる。
声援も熱く、周囲との不思議な一体感。

折り返し地点を過ぎてからは、しばらく気分よく走る。
ランナーズ・ハイらしきものを感じる。
でも残り10キロを過ぎてからは、足はパンパン。頭の中は真っ白。
それでも足だけは前へ前へ。
・・・ふと気がつくと見えるゴールの門。
それまでは走るだけでやっとだったのに不思議と出来るラストスパート。
大会に出場したときにだけ出せる力。
自分ひとりで走っていては引き出せないもの。
ゴール・・・・・。

所感。
もちろん達成感はあった。
でも感じたのは満ち足りた思いよりもむしろ、
やっと足固めが出来た、そんな感覚。
走るのが好きな理由の一つは、限界に挑戦出来るからだけど。
まだ力を伸ばせる気がした。
次の目標、ウルトラマラソンの完走。
フルマラソンで三時間のタイムを切ること。
やりたいことは、まだまだある。

それと。
「芯になるものがあってこそ、他の物事も楽しめる」
・・・とは尊敬してる友人の言葉なのだけれど。
僕は走りを通してその芯をようやく掴めた気がする。
それを手放したくない。
走る習慣を今のように続けられるとは思わないが。
でも走ることはずっと続けていこう。どんな形であれ。

最後に。
一緒に大会に出場して下さったNさん、
(つれない一言を聞き逃してくれた大らかさに敬意を表しつつ)
わざわざ応援に来てくれたOさん、写真を撮ってくれたIさんに
感謝の意を表しておきたい。
あと。二年前、マラソン大会に出場したのは小さな偶然・・・
ある方からの勧めがあったからこそ。
走ることは自分との闘い。そこから多くのことを学べたが。
でも人との縁があったからこそ、手に入れることが出来たものかもしれない。このことは忘れずにいたい。その方にも謝辞を表しておきたい。

テーマ:日記 - ジャンル:日記

父親たちの星条旗
【映画感想】
父親たちの星条旗
"Flags of Our Fathers"

イーストウッド監督の映画は、後から後から鮮烈な印象が蘇ってくる。
この「父親たちの星条旗」と「硫黄島からの手紙」は物語としてリンクする箇所は少ないし、視点となる立場が対極なものの。二作観終えたあとでは、一つの大きな物語を目の当たりにした・・・そんな気分になる。

この硫黄島二部作に共通する要素。
それは、兵士に敬意を払いつつも、戦場をあるがままに捉えているということ(近年の幾多の戦争映画が試みつつも、今ひとつ上手くいかなかったことを見事やってのけた)だが。この「父親たちの~」では、戦場そして更に戦争の欺瞞を暴いていく姿勢は徹底していて容赦がない。たとえば「仲間を見捨てない」・・・アメリカの戦争映画でよく見かける信条を、この映画はあっさりと否定する。それも皮肉な形で(その前のシーンが友軍を鼓舞するものだから、余計に痛烈)。
映画はそんなスタンスの象徴として、有名な「硫黄島の星条旗」の写真の裏側にあるものを抉っていく。

ひょんなことから英雄になってしまう、三人の主人公。
この映画では時間軸をシャッフルした一見ドキュメンタルな構成が、物語が進むごとに帰還兵である彼らの主観へとなっていき、苦悩・葛藤が立体的に浮かび上がってくる。戦闘シーン、特に硫黄島上陸でのそれは凄絶な場面だが(アメリカ軍が如何に苦戦したかが分かる)、断片的に切り取られ、戦闘の終わりが見えず、何度も何度も「こだま」するかのようなそれらからはカタルシスは生まれない。感じるのは、ただただ心の痛み。

そんな戦場で受けた現実と、大儀の為に英雄に祭り上げようとする戦争の現実。
(当時のアメリカの財政が戦争続行困難なほど破綻していたのというのは本当なのだろうか?だとすれば、硫黄島の戦いはいろんな意味で興味深い。)大きな流れの中で、ある者は逆らい、ある者は流れに乗り、ある者は静かに受け入れようとする。「英雄」と向き合う姿勢は各々異なるが。流れの行き着く先は変わらない。虚飾に満ちたその流れ。戦場とは違う形でしかしそれと絡み合い、生まれ、深まる心の傷。
・・・それらを見ていると、戦争の持つ矛盾を感じずにはいられない。

さて。イーストウッド監督の映画には独特の魅力がある。
ナレーションで淡々と進むエピローグ・・・普通なら説明的になってしまいそうな展開が、監督らしい哀愁を帯びた音楽と詩情あるショットの数々(人と風景が溶け込んでいる。もの言わぬ立ち姿、後ろ姿が画になっている。)によって、とても魅せる場面になっている。個を通して戦場を、そして戦争を描いた映画が、ここでまた人生を描いた映画として昇華される。
そしてここで、英雄とは・・・結局そういう人たちは何であったかということへ導きだされる結論がいい。映画は実にシンプルに「いい奴だった」と、そう結ぶ。ごくありふれた言葉だが。そこに三人の人生の深い皺が被さると、コクのあるものに思える。飾らない、真のものに思える。

戦場を徹底して描いた「硫黄島からの手紙」。
個を通して戦争まで描いた「父親たちの星条旗」。
対極的な二作だが。語り手が父親から息子へと引き継がれることによって・・・「硫黄島~」とは違う形で、過去に確かにあった戦争、そしてそこで生きた人たちをここでも意識する。
同じレールを走る二つの異なる物語。その狭間で見える人間の姿。苦味の詰まった彼らの生き様。そこへ向けられる監督の優しさ。その視線には、酸いも甘いも噛みわけた御大76歳の監督らしい境地・・・若輩者のぼくには言葉にし難いが、現実を直視し許容した諦観とも達観とも云えそうなもの。そんなものを感じる。
そしてこの映画の終盤の、浜辺での束の間の安らぎに、監督イーストウッドの戦争への静かな思いが集約されている気がした。


父親たちの星条旗

テーマ:硫黄島二部作 - ジャンル:映画

硫黄島からの手紙
明けまして、おめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。

今年は手を抜いて、年賀状はおろか、年賀メールさえ誰にも送ってませんでしたので、この場を借りて新年の挨拶を。・・・そんな無精者にも関わらず、年賀状&年賀メールを送って下さった皆さん、本当にありがとうございます。

さて、いつものブログを。

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【映画感想 「硫黄島からの手紙」】

「父親たちの星条旗」の手すさびなんじゃないか、そんな心配は杞憂。
映画としての緻密さは前作に譲るし、予算上の制約を感じはするものの。こちらにはストレートな戦争ドラマとしての魅力がある。さらにつけ加えれば、日本の描写の正確さは今までのアメリカ映画とは次元が違う・・・鑑賞中、これがアメリカ人監督の手によるものを忘れさせる程のもの・・・が、しかし単に日本兵をアメリカ兵と平等に描こうなどという映画でもない。とても冷静、それでいて敬愛に満ちた眼差しが感じられる映画。

この映画、イーストウッド監督らしい持ち味が存分に発揮されている。
栗林中将やバロン西こと西中佐といった実在した登場人物を、狂言回したる等身大の主人公の目線から描き・・・また回想場面を巧みに挿入することによって、行間から登場人物の心情が伝わってくる。映画全体に、近すぎず遠すぎない絶妙の距離感があり。そんな雰囲気にセピア調の画面が実によく映えている。
"Less is more"を掲げるイーストウッド監督には、日本というテーマとの相性がまたとても良かったのかもしれない。

映画は物語の舞台を絞り込み、そこにあること、戦場での事実を淡々と積み上げていく。捕らわれの身となる兵士を巡るエピソードの数々を取り上げただけでも、一つ一つがねじれて絡み合い、一面的な見方を拒む。複雑な思いに駆られる。そんな中、映画で特にクローズアップされるのは名誉と生と死。「父親たちの~」と同じく、ここでも安易な英雄の虚飾を暴いていく。強要される玉砕の痛ましさ、無謀な突撃の滑稽さ。それらの逸話は、死に急ぐことの無意味さがグサリと胸に突き刺さる。
しかし死を厭わず戦った者たちを、この映画は否定しない。渡辺謙演じる栗林中将しかり、西中佐しかり。己の信念に忠実であろうとした彼らの強靭さ。それは二人とも敵国をよく知る人間であるだけに、より一層忘れ難い。西中佐が部下に託す言葉(最善を尽くせ。自分の道を進め。それが正しい道だ。)は、迷える戦場でのさながら道標のようだ。

映画は、混沌として相容れない現実を描きつつも。
(栗林中将の台詞が印象的・・・家族がいるから戦う自分がいる。しかし、家族がいるから死ぬことを躊躇う自分もいる。)
共通するもの、同じ思いをそこからすくい取ってもみせる。手紙というツールを通して、それらがクッキリ見えてくる。それは、軍隊内での上下関係、いわんや国籍をも問わない。ラストではそれらは画面中に溢れだし、過去と現在という垣根さえも飛び越えてくる。

戦うことの皮肉さ(「コルト・ガバメント」を取り戻そうとするシーンは象徴的)を感じつつも。万感が込められただろうそれらを前にすると、戦場で散った全ての兵士に敬意の念を払わずにはいられない。
静かなピアノの調べと伴に、深い余韻に包まれる。


硫黄島からの手紙

テーマ:硫黄島二部作 - ジャンル:映画

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