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父親たちの星条旗
【映画感想】
父親たちの星条旗
"Flags of Our Fathers"

イーストウッド監督の映画は、後から後から鮮烈な印象が蘇ってくる。
この「父親たちの星条旗」と「硫黄島からの手紙」は物語としてリンクする箇所は少ないし、視点となる立場が対極なものの。二作観終えたあとでは、一つの大きな物語を目の当たりにした・・・そんな気分になる。

この硫黄島二部作に共通する要素。
それは、兵士に敬意を払いつつも、戦場をあるがままに捉えているということ(近年の幾多の戦争映画が試みつつも、今ひとつ上手くいかなかったことを見事やってのけた)だが。この「父親たちの~」では、戦場そして更に戦争の欺瞞を暴いていく姿勢は徹底していて容赦がない。たとえば「仲間を見捨てない」・・・アメリカの戦争映画でよく見かける信条を、この映画はあっさりと否定する。それも皮肉な形で(その前のシーンが友軍を鼓舞するものだから、余計に痛烈)。
映画はそんなスタンスの象徴として、有名な「硫黄島の星条旗」の写真の裏側にあるものを抉っていく。

ひょんなことから英雄になってしまう、三人の主人公。
この映画では時間軸をシャッフルした一見ドキュメンタルな構成が、物語が進むごとに帰還兵である彼らの主観へとなっていき、苦悩・葛藤が立体的に浮かび上がってくる。戦闘シーン、特に硫黄島上陸でのそれは凄絶な場面だが(アメリカ軍が如何に苦戦したかが分かる)、断片的に切り取られ、戦闘の終わりが見えず、何度も何度も「こだま」するかのようなそれらからはカタルシスは生まれない。感じるのは、ただただ心の痛み。

そんな戦場で受けた現実と、大儀の為に英雄に祭り上げようとする戦争の現実。
(当時のアメリカの財政が戦争続行困難なほど破綻していたのというのは本当なのだろうか?だとすれば、硫黄島の戦いはいろんな意味で興味深い。)大きな流れの中で、ある者は逆らい、ある者は流れに乗り、ある者は静かに受け入れようとする。「英雄」と向き合う姿勢は各々異なるが。流れの行き着く先は変わらない。虚飾に満ちたその流れ。戦場とは違う形でしかしそれと絡み合い、生まれ、深まる心の傷。
・・・それらを見ていると、戦争の持つ矛盾を感じずにはいられない。

さて。イーストウッド監督の映画には独特の魅力がある。
ナレーションで淡々と進むエピローグ・・・普通なら説明的になってしまいそうな展開が、監督らしい哀愁を帯びた音楽と詩情あるショットの数々(人と風景が溶け込んでいる。もの言わぬ立ち姿、後ろ姿が画になっている。)によって、とても魅せる場面になっている。個を通して戦場を、そして戦争を描いた映画が、ここでまた人生を描いた映画として昇華される。
そしてここで、英雄とは・・・結局そういう人たちは何であったかということへ導きだされる結論がいい。映画は実にシンプルに「いい奴だった」と、そう結ぶ。ごくありふれた言葉だが。そこに三人の人生の深い皺が被さると、コクのあるものに思える。飾らない、真のものに思える。

戦場を徹底して描いた「硫黄島からの手紙」。
個を通して戦争まで描いた「父親たちの星条旗」。
対極的な二作だが。語り手が父親から息子へと引き継がれることによって・・・「硫黄島~」とは違う形で、過去に確かにあった戦争、そしてそこで生きた人たちをここでも意識する。
同じレールを走る二つの異なる物語。その狭間で見える人間の姿。苦味の詰まった彼らの生き様。そこへ向けられる監督の優しさ。その視線には、酸いも甘いも噛みわけた御大76歳の監督らしい境地・・・若輩者のぼくには言葉にし難いが、現実を直視し許容した諦観とも達観とも云えそうなもの。そんなものを感じる。
そしてこの映画の終盤の、浜辺での束の間の安らぎに、監督イーストウッドの戦争への静かな思いが集約されている気がした。


父親たちの星条旗
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テーマ:硫黄島二部作 - ジャンル:映画

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